【映像’20「支え合い~中国残留邦人と介護施設~」】
2020.09.27
兵庫県尼崎市の高齢者介護施設「三和之家」。今年1月に開業したこの施設は、田山幸雄さん(61)、華栄さん(62)夫妻が営む。生まれつき脊椎カリエスの障害がある華栄さんは、中国・北京市の障害福祉課で働いていた。1992年に来日し、日中障害者交流の仕事に取り組む。その過程で、中国残留孤児が高齢化し、言葉や文化の壁で日本の介護施設に馴染めないケースを知った。2005年に幸雄さんと結婚。骨を埋めるつもりで、中国残留孤児たちが通いやすい高齢者施設を開くことに。中国語ができる残留孤児2世の介護員も配置した。
だが、コロナ禍で利用者は減少。最大200万円支給される持続化給付金は、前年の売上げ実績が必要で当初は適用外。6月末に支給対象は拡大されたが、支給額を計算してみると29万円で、1ヶ月の家賃30万円も賄えない。開業費用1600万円の返済が重くのしかかる。しかし、利用者が少なくても施設を開け続け、1食200円と格安で昼食提供をする。
施設に通う宮島満子さん(84)は1945年8月の終戦時には、中国・旧満州にいた。国策だった満蒙開拓団として、長野県から家族11人で渡って6年。当時9歳だった宮島さんは、ソ連軍の侵攻で逃避行を続けたが途中、父は捕虜として焼き殺され、赤ん坊だった弟は母の乳が出なくなり餓死。行き着いた奉天の収容所で飢えと寒さの厳しい難民生活の末、両親と兄弟姉妹の8人を亡くし、中国人養父母にもらわれ、2人の兄たちとも生き別れた。中国の学校では「小日本鬼子」と苛められ、通学できなくなった。19歳で結婚、4人の子供に恵まれ1985年、50歳で日本に永住帰国を果たす。現在1人で暮らす宮島さんにとって「ここは過酷な人生を送った私にとって、憧れた祖国で楽しく過ごす、最後の場所」だという。
戦後75年の夏、高齢化した中国残留孤児たちとそれを支える人たちの声を聞いた。
• 第28回 坂田記念ジャーナリズム賞受賞